チョコおいしかった

今日はバイト3連勤の3日目でした。

出勤して早々、酔っ払いのおじさんが入店してきました。バイト先の靴屋にある椅子がお目当てだったようです。来店する人の中にはこのように椅子に座り、休憩をすることを目的にしている人がちらほら見受けられます。しかしこのおじさんはそれだけでなく、わたしに「悪いけど、サイダー買ってきてや」と言い放ち、くしゃくしゃの千円札を渡してきました。幸い、今日のお店は特別忙しいわけでもなく、スタッフもわたしの他に、もう1人いたので近くのコンビニまで三ツ矢サイダーを買いに行きました。

お店に戻ると、おじさんはお釣りをくれたので、わたしの気分はノリノリです。さっきまでの、なんやねんこのおっさん!という気持ちも、もうありません(^^♪

 

 

違います!

ブログに書きたいのは、こんなTwitterに書くようなことではありません。

 

 

帰り道、電車を降り改札を通ると、20代前半くらいの年齢に見える女性がチラシ配りをしていました。前を通るときにそのチラシを受け取ろうとしましたが、それはチラシでなく、なにかが書かれた画用紙で、配っていたわけでもありませんでした。

画用紙には、日本語の文字で、彼女が留学生であること、お金に困っているのでお菓子を売っていることの2つが書いてありました。話を聞こうと声をかけると、彼女はほとんど日本語が聞き取れず、話すことも苦手なようでした。英語に切り替えると、日本語よりは少し会話ができ、彼女がベトナムから来たことがわかりました。売っていたのは小さな袋にチョコレートが5つ入ったものでした。わたしは彼女からそのお菓子を、今日バイトでおじさんにもらったおつりで買って帰りました。

チラシ配りだと見間違えていた彼女は、わたしが出勤するときにも見かけていたので、駅の前でずっとお菓子を買ってくれる人を探していたのだとおもいます。

 

わたしは両親にこの話をするかとても迷いました。とくにパパに話すと、怒られることは火を見るよりも明らかでした。「なにが入ってるかもわからんもん買ってくんな。危機感ないんじゃ。」と。もちろんパパその考えも理解できます。彼女が本当に留学生である確証はありません。

 

 

わたしが保育園に通っていた頃、たまにパパの自転車に乗せられて買い物に行くことがありました。その帰り道、家からいちばん近い信号で、知らないおじいさんがずっと「すいません、すいません」とわたしたちに呼びかけていたので、わたしは自転車の後ろから「どうしたんですか~?」と声をかけたのですがパパはそのまま自転車を出発させました。パパ曰く、真冬に半袖でいるなんておかしい人だから話しかけない方がいい、とのことでした。

わたしはそれに納得して自転車に乗ったままで、おじいさんの様子をうかがうために後ろを振り返りました。すると、後ろについてきていたはずのママが、自転車から降り、おじいさんと一緒に、わたしたちの自転車と反対の方向に歩いて行くのが見えました。

わたしは急いで「ママが連れていかれた!」とパパの背中を叩きました。パパは自転車をUターンさせママたちの場所まで向かいました。

しかし、そこにはもうおじいさんはいませんでした。ママの説明では、そのおじいさんはご近所さんで少しボケていて家がわからず帰れなくなって、助けを求めていたそうでした。ママはそのおじいさんを彼の家まで送り届けていたのです。

その時、わたしはおじいさんを見放してその場を後にしたこと、話しかけない理由に納得したことをとても後悔し、とても恥ずかしく思いました。これがわたしが初めて自分のことが大嫌いになった瞬間でした。

 

 

 

今日、留学生を名乗る彼女からお菓子を買ったのも、彼女のためではなく、ただ自分の中に、疑う気持ちよりも信じる気持ちが多くあってほしいと願った結果なのだろうと感じました。

彼女は留学生でもなく、誰かにこれを売り切るまで帰って来るなと言われていたり、お金に困っていないけどお菓子を売っていたのかもしれません。しかし真実は、わたしが知ることはないでしょうし、知らなくてもいいものだと思います。

わたしが今日彼女を信じて、少し迷いながらでもお菓子を買ったことに、わたしにとっての意味があると思います。

わたしは人を信じる世界に生き、人を信じて生きていたいです。今日はその練習だったのかなあ。

きっとパパも疑う必要のない世界で育っていれば、あのおじいさんに声をかけただろうなあ。

 

意外に楽しかった

今日10代最後の夜だなって気が付いたのが、授業と家事が終わった後にBRAHMANの『今夜』を聴きながらお風呂に入っていた時でした。

 

あ~縷縷夢兎 着れなかったなぁ、まだ生きてんなぁ、戦えなかったなぁ、とか思ってシャンプーをしました。もこもこ。美容室で髪を洗ってもらうのは苦手だけど、耳の後ろ側を洗われてる時の音は好きなんよな~。

 

自分が16歳のとき縷縷夢兎を身に纏った黒宮れいちゃんを見て、かわいくなってこんなかわいい服が着てみたいと思っていました。れいちゃんのことが好きな、それ系の子はみんな思ってそうですね。

 

できなかったことのどれもが、行動力次第でできたことに変えれたんだろうなと思うと、毎日とくに何もせず過ごす自分に呆れてしまいます。もし仮に縷縷夢兎を着たとしても憧れの黒宮れいちゃんと自分の違いにびっくりするだけなんだろうなとも思うけどね。ん~、でもやっぱりちょっと着てみたかったな。まあ、やりたいことが全部簡単にできる人生なんて面白くないからね……って書こうとしたけど、絶対できた方が面白いですね。

 

 

 

できなかったことが先に思い浮かびましたが、一瞬でも10代はできなかったことばかりではなかったと思えたのが、自分の中での驚きでした。

 

AppleMusicの邦楽ヒッツに常駐している某女性SSWが路上ライブをしていた時代、わたしが音楽が大好きだった頃に、一度彼女と対バンしたことがあって、そこで彼女が「10代のうちに人を何人愛せるかな」と歌っていたのがずっと忘れられずにいました。きっと自分は何人どころか1人すら愛せないだろうなと強く思ったからだと思います。

今になって考えてみると、「愛する」は恋愛に限らず友達や家族に対しても使う言葉で、そして、あの頃は絶対に無理だと思っていた「愛する」ことが、友達や、その友達に少し変わっていると言われている家族、手をつないで隣を歩いてくれる恋人にも、できているなと思います。びっくり。

 

 

まだ20歳を迎えるほどに、容姿と精神の両方が成長してないなとは思いつつ、高校生の「はよ死にたい」と「ユニバしか勝たん」しか日本語を知らなかった自分とは少し違うなとも思っています。ギターを弾かなくなり音楽から離れ、過呼吸にもならずに電車に乗ったり悲惨なニュースを見ることができる程に感受性が死んだのですが、20歳以降の正常な人生と引き換えだったらいいな。そもそも正常がなにかは全然わかりませんが。

 

 

 

お風呂で『今夜』の次に流れたのが『Beyond the Mountain』だったので、爆音のデスボイスで考えていたことが吹っ飛びました。

20歳になったらお酒トゥウィートしたいな。

 

 

 

自分のこと書くのってむずかしいね。おやすみなさい。